臼杵八坂神社由緒略記

本神社は、昔奥州磐前おうしゅういわさき(福島県いわき市)鶴ヶ峰つるがみねにおまつりしておりましたが、源義家みなもとのよしいえ公の清原氏討伐(後三年の役)の戦乱を避けるため、船により安芸国尾道あきのくにおのみちを経て臼杵庄洲崎岩ケ鼻うすきのしょうすさきいわがはなに着岸し、神ノ木原こうのきばるに鎮座されました。
後、臼杵領の総鎮守として広く尊崇されておりましたが、大友宗麟おおともそうりん公がキリスト教に帰依して領内の社寺焼討を行ったとき、その難を避け、御神体を田町の見星寺けんしょうじ裏の岩窟、海添かいぞえの岩窟(現在の御旅所)、津久見の八戸やと、後には日向ひゅうが飫肥おびに御遷座申し上げておりました。
大友氏改易かいえきの後、臼杵城主太田一吉おおたかずよし公の命により、丹生嶋城にゅうじまじょう三ノ丸 廓内くるわうち(現在地)に社殿を造営して御遷座、現在に至っております。

太田氏の後臼杵城主となった稲葉氏も代々崇敬の念厚く、神殿・拝殿の造修、神幸祭の創始とそれに伴う御旅所の造営、神輿ほか各種御道具の寄進がありました。
明治維新は、社名を「祇園宮」から「八坂神社」に改めましたが、現在も「祇園様」と呼ばれて市民に親しまれております。

主祭神:健速須佐之男命たけはやすさのおのみこと尊、奇稲田姫命くしいなだひめのみこと大国主命おほくにぬしのみこと
相殿神:丹生嶋明神にふじまみょうじん菅原神すがはらのかみ事代主神ことしろむしのかみ

境内社由緒

摂社せっしゃ

摂社せっしゃ八幡社はちまんしゃ愛宕社あたごしゃ)は、天和三年(1683)稲葉五代藩主景通かげみち公二社殿造営す。造営奉行大津留才兵衛吉重おおつるさいべえよししげ
後、粟島の神を合祀ごうし、更に洲崎総役所鎮座の稲荷神と江戸上屋敷鎮座の稲荷神を明治四年に合祀し、新町・唐人町区により祭祀さる。
明治十三年田町鎮座の金刀比羅神を合祀し、田町区により祭祀さる。
昭和二十八年、中須賀鎮座の蛭子社を合祀し、魚町三町により祭祀さる。
昭和三十年代に至り、御社殿老朽により神明造として改築されました。

御祭神:八幡社はちまんしゃ応神天皇おうじんてんのう宇賀御霊神うがのみたまのかみ蛭子神えびすのかみ
    愛宕社あたごしゃ火産霊神ほむすびのかみ加具土神かぐつちのかみ大物主神おほものぬしのかみ

粟島社あわしましゃ

粟島社あわしましゃは、愛宕社あたごしゃ合祀ごうしの所、招魂社しょうこんしゃが、昭和三十五年稲葉神社と合併合祀がっぺいごうしされたため不要となった社殿を当神社に譲り受け、粟島社を奉斎ほうさいした。

御祭神:少名彦名神すくなひこなのかみ

本護稲荷社ほんごいなりしゃ

本護稲荷社は、大友氏の時代に、浄土宗法岸寺ほうがんじ内に奉斎ほうさいされたが、寛永四年(1627)法岸寺廃寺の後神ノ木原こうのきばるに、元治元年(1864)本町入口に、明治二十一年稲葉神社境内に、明治三十四年八坂神社境内にと転々と遷座し、現在に至る。

御祭神:宇賀御魂神うがのみたまのかみ健速須佐之男命たけはやすさのおのかみ大市比賣神おおいちひめのかみ

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